パソコンの黒船

2009年02月14日

新パソコンの黒船−20ドルパソコン!?の衝撃

日経新聞2月12日朝刊の特集「100年目の産業興亡・・・新ダウンサイジング」記事に「インドが政府機関の音頭取りで20ドルパソコンを早ければ秋にも売り出す」との情報が載っています。

千円札2枚で買えるパソコンなど有り得ない!と思いつつも、背景には「新たな市場競争モデル/新ダウンサイジング」という深い意味を含んでいるようです。

「20ドルパソコン」計画のことを知らなかったのでネットで調べてみると、次のような記事が見つかり、その実体は、ノートパソコンと言えるものではなく、インドが実施するe-ラーニング計画で学生などに配布される教科書などの素材を受信・保存・出力するための小さな「ストレージデバイス」がその正体のようです。

<参考記事>

1800円パソコン開発へ インド、IT教育支援

どうしても気になる、インドの20ドルラップトップ「Sakshat」

インドの「10ドルノートPC」、ノートPCじゃなかった

 

それにしても、考えさせられるのは、低価格ノートパソコン(5万円パソコン)が台湾のパソコンのマザーボード専業でパソコンOEM企業だった一般には無名のASUS(アスース)がビジネスチャンスを捉え5万円ノートパソコンで市場参入したことに始まり、日本でも発売から1年程度で5万円パソコンジャンルが市場の1/4を占め、NECや富士通、DELL、HPなど様子見を決め込んでいた日米のパソコン大手が台湾勢のシェア急伸に慌てて追いかける構図となっていることだ。 

インドの20ドルパソコンのニュースが、妙な真実味をもって関心を引いたのも、貧困層が多くコストが安いインドで政府の後押しがあるなら、“20ドルパソコンも有りえる”と思われたからである。 20ドルパソコンは無理としても、インドなら100ドルパソコンは実用的な物が十分に作れると思わせられます。 

5万円パソコンで大きな波乱が起きている日本のパソコン市場だから、近い将来に100ドル〜200ドルパソコンが「インドからのパソコンの黒船」として上陸する恐れは十分に有り得ます。 そうなれば衝撃はさらに大きく、日本のパソコン市場のメーカーの顔ぶれががらりと変わり、その安さから1人で5台〜10台と使うなどパソコンの使い方・価値観も革新的に変わる可能性があります

問題なのは、日本のパソコン大手(製品企画者)は、その高コスト体質から、敢て利益を減らす低価格戦争をしたくないのが本音で、技術的には何も難しくないにもかかわらず、このような革新的な超低価格商品の発想は出ようが無いということです。 挑戦的な商品が出ず、後追いにならざるを得ず気がついたら市場シェアを失ってしまっていることです。  日本市場の中だけで巣籠もりしている内弁慶の日本パソコン大手(NEC、富士通、など)はジリ貧の危機にあり、生き残りを賭けた大きな転換点にあるようです。

Ref:第三の黒船:デル・ダイレクトモデル

5万円パソコンとSSDの威力

※本記事は「@あるん(あっとあるん)の団塊・シニアのコミュニティー」との連携投稿です。

 


2005年07月13日

第三の黒船:デル・ダイレクトモデル

BTO&SCM
第三の黒船:デル・ダイレクトモデル
 

パソコンの歴史で第一の黒船が92年の“コンパック・ショック”であり、第二の黒船が95年の“Windows95”と言えると思います。

 この95年を境にWINTELに象徴されるハードとソフトのアーキテクチャーのデファクト・スタンダード化により、パソコンのオープン化とコモディティー化が一気に進み、パソコンメーカー間の基本的なアーキテクチャーの差はなくなっていきました。

 

これはとりもなおさず、パソコン業界にそれまでのCPU速度やグラフ性能など「機能・性能」による差別化競争から、「低価格化」と「個々のユーザー・ニーズを満たす価値の提供」競争へとビジネスモデルの転換を迫ることになりました。

 

この時に出現したのが、パソコンの第三の黒船と言える“デル・ダイレクトモデル”です。

 

デルは93年に日本法人を設立し、直販営業部隊が主に大企業向けに直販PCの販売を開始し、当初は大きな注目はされませんでしたが、徐々に日本市場でも深く静かにシャアを伸ばしていました。 さらに第二の黒船のWindows95によるパソコンのオープン化とインターネット時代の幕開けの時流をうまく捉まえて、デルは97年にIT技術を活かしてWeb直販ビジネスを日本でいち早く開始しました。

 

95〜96年当時の日本マーケットは間接販売、即ち、販売店販売が主流でしたが、デル・ダイレクトモデルは世界中でパソコン業界に直販モデルという新たなビジネスモデル・ショックを与え、間接販売と直接販売の戦争が起きるることになりました。

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2005年06月04日

黒船パソコンを撃退す!

伝説の低価格機:98FELLOW(17)

黒船パソコンを撃退す!

93年1月17日に98FELLOWはいよいよ発表・販売開始の運びとなりました。

98FELLOWシリーズは上位シリーズのWindows対応の最新スペックを満載した98MATEシリーズとともに大々的な宣伝が行われました。 DOS/V機との対抗を意識したCMの「速さは力」(98MATEは当時の最新・最高速のi486DX2-66」を採用しWindows対応のVGA256色グラフ搭載、かつ、DOS画面のスクロールはハード・サポートの98アーキテクチャの方が断然に早かった)のキャッチフレーズが新聞やTVに流されました。 

98MATEシリーズのカタログ

新製品は発売の数週間前から、主要な量販販売店に新製品情報がリークされて販売店側の評判・感触や仕入れ見込み数などの情報が入ってきます。

92年10月から日本上陸した黒船パソコン(コンパックProLineaなど)は93年の1月時点までは販売実数としてはそれほど大きくはなく、取り扱っている販売店の数もまだ限定的で実質的なインパクトはまだ少なかったのですが、何といってもマスコミで「コンパック・ショック、日の丸パソコンの危機」と大々的に報道され、一般にPC98への実体以上にマイナスイメージが広がり出していました。

そのような状況でNEC営業部隊やPC98をメインに扱っている量販販売店にとっても、PC98は遅れている・割高というイメージを払拭できる「破格の低価格DOSモデル:98FELLOWシリーズ、DOS/V機を凌駕する最新スペックのWindowsモデル:98MATEシリーズは売れる弾として大好評で迎えられ、新製品の認知度・関心も高く、販売の滑り出しは絶好調となっていきました。

 

発売開始後の93年1月〜3月の3ヶ月間の販売台数は併せて37万台の出荷を達成しました。

ちなみに、92年のNECのパソコン販売台数は117万台、93年の販売台数は132万台と大幅な伸びを見せました。

 

このようにして、黒船パソコンとの第1次対決はその日本市場への侵入を最小限に食い止めて大成功に終わりました。 

98FELLOWの開発プロジェクト・メンバーや生産部隊もそのミッションを達成し大きな喜びと安堵感を感じていました。

 

しかし、後から考えるとこの「93年1月が日本のパソコン市場が実質的に開国して、それからの長い大競争時代の幕開けとなった重要な転換点」でした。

 

それは、この93年1月をきっかけにして、低価格化の流れがさらに加速、Windowsの出現によるソフト的に漢字障壁を乗り越えてPC98アーキテクチャーの強みが徐々に消失、第2の黒船とも言えるDELLが93年1月に日本市場に新たなビジネスモデルの「直販ビジネス」で参入、Gatewayの日本上陸など多くの内外PCメーカーが新規参入、その後のWindows95によるDOS時代の終焉、WINTELの寡占化の始まり、などの大きな転換が始まったからです。

 

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2005年05月28日

コンパック・ショックは台湾の救い神

パソコンの黒船(5)
コンパックショックは台湾の救い神
 

コンパックが92年10月にパソコンの黒船として、日本市場獲得に乗り出さざるを得なかった裏の事情(コンパック自身が米国で台湾PCメーカーや直販PCメーカーの低価格ショックを受けて薄利多売路線に転換した)を前回に書きましたが、ではそのときの台湾PC業界にコンパックショックはどのような影響を与えたのか、1つの逸話をご紹介します。

 

コンパックが低価格路線に180度路線変更をする以前は、台湾系PCメーカーは米国市場で、IBMやコンパックなどの大手PCメーカーに対して、低価格を武器に新規参入をしてシャアを徐々に伸ばしつつありました。 そうしたなかで、92年半ばにコンパックが一転して、低価格路線へ変更とのニュースにより台湾業界は米国市場から追い出されるのではないかと震え上がりました。

’92/6/15コンパックショックbyTCA)を参照。

 

コンパックは低価格路線へ変更して早くも94年にはIBMを抜いてシェアトップ、世界一のパソコンメーカーとなり、業績も回復しました。 しかしながら、上記の記事にもあるように、低価格かつ大量生産を維持するためには台湾PCメーカーに生産委託をせざるを得なくなり、結果的に見れば米国における空洞化のさきがけとなってしまったということです。

米国市場で息の根を止められることを心配していた台湾PC業界だが、逆にコンパック、IBM、デル、HPなど米国大手のOEM工場として急成長し、その後、日本やヨーロッパのPCメーカーからのOEMでも大繁盛し「台湾は世界のパソコン工場」と言われたのをご存知の方も多いと思います。

 

引き続く近年の世界のパソコン業界大手の変遷は耳新しいと思います。

コンパックは98年にDECを買収しサーバー事業への拡大する勢いを見せ、DELLなどの直販モデルと対抗するためにディーラールートの注文生産方式(BTO)などへの取り組みも試みたが、2002年には下位だった業界3位のHPに買収されて、コンパックの名前は消えることとなってしまった。 世界のパソコン工場は台湾から中国へシフトし、04年12月にパソコンの元祖であるIBMが中国の Lenovo Group Limited (聯想集団有限公司)にパソコン事業を丸ごと売却してしまったのは、パソコン業界の変遷の激しさを示す象徴的な出来事でした。

 

日本のパソコン市場では、92年の黒船パソコン以来、多くの強力な海外大手メーカーが日本市場に参入して激しい競争が行われてきたが、依然としてシャア上位5社中4社は国産勢(シャア順位はNEC、富士通、DELL、東芝、ソニーの順、2004年度)で占めており、そういう意味では日本勢は市場を明け渡すことなく、黒船パソコンを食い止めているとも言えます。

その理由は単に「地元の利」以上の何か、例えば、日本人好みのきめ細かさ、サポートの良さ(分かりやすいマニュアル、サポートセンター)、作りや品質の良さなどへの相対的安心感などが背景にあるような気がします。

 

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2005年05月10日

パソコンの黒船(4)

“コンパック・ショック”の裏側
 
92年10月に$1000パソコンを引っさげて日本で販売開始したコンパックは、その低価格の衝撃や世界一のPCメーカーの日本上陸などの意味をこめて“コンパック・ショック”とも揶揄されました。
 
しかし実はその裏側には、当のコンパック自身が北米のPC/AT互換PC市場で、当時急速に台頭してきた台湾メーカーやDELLなど直販メーカーの低価格参入で、ビジネス・ショックを受けた結果の一大方向転換だったことをご存知でしょうか。
 
コンパックの成り立ちは、半導体のTIの技術者だったロッド・キャニオンが仲間2人と82年に立ち上げた技術志向が強い会社で、インテルが85年に32ビットCPU(i80386)を出したときも、IBMに先駆け採用しPC/AT互換機市場をIBM以上にリードした、どちらかというと、ハイテク志向、高価格だが高性能、信頼性を売り物にする会社でした。
 
当時、我々の事業部は北米でPCのビジネスもやっており、「APCシリーズ」という海外向けPCの開発を日本と北米のボストンにあった現地法人と連携して開発していました。 その関係もあり、コンパックの新製品はいち早く取り寄せて、「ティア・ダウン」という分解調査をやっていたことを思い出します。
アメリカ人好みの、がっしりした頑丈な大きなケース(シャーシーとも言う)の手触りだったなー、アメリカ人はやはり大きいのが好きだなと思ったものです。 現在でもB5サイズノートの小型ノートはアメリカでは売れていないようです。 
 
しかし、91年以降のアメリカの不況によるパソコン需要の大幅な落ち込みや、前述の低価格の台湾勢や直販メーカー勢にシェアを喰われて、コンパックは苦境に陥り92年にロッド・キャニオン社長が更迭され、新社長エッカード・ファイヤー社長のもとで一転して、「薄利多売」に一大方針転換し、欧州や日本にも本格進出することとなったわけです。
 
「薄利多売」のビジネス・モデルは、その名のとおり大量の販売規模を維持しながら現行製品を売れ残らないように売りさばき、かつ、新製品を出し続けることを迫られます。
従って、コンパックが低価格路線へ転換するに際して、より大きなパイを必要とし、日本やヨーロッパ市場獲得は必須の前提条件だったのです。
 
●問題提起:薄利多売のビジネスは長くは続かない!?
PC業界の変遷を長く見ていて思うのは、価格競争に入り込んだビジネスや低価格だけでシャア拡大を狙う企業やビジネスモデルは、一時的には花形になるがほとんどが長くは続いていないということです。
 
PC業界以外でも同様な例が多い。 
単に価格だけではない「+αの何か」が長く存続できる鍵のようです。 そこがなかなかに企業トップも見極められない。 
 
 
内外価格差の誤解
 
 
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2005年05月09日

パソコンの黒船(3)

当時(90年〜93年)のパソコンの市場環境を概観しておきます。

 

1)90年5月:北米でマイクロソフトがMS-Windows3.0発売、

  大きな反響が起こる

2)90年10月:日本IBM DOS/V規格の「DOSJ4./V」発表

引き続く90年12月に日本IBMがDOS/V規格を普及させるためにOADG(オープン・アークテクチャー・デベロッパーズ・グループ )を設立

  →DOS/V機の立ち上がりのキッカケとなった。

3)91年2月:NEC PC-9801シリーズ用MS-Windows3.日本語版発売

 日本におけるWindows時代の幕開け、MS−DOS時代のメーカー間でAPソフト非互換の障壁を崩すこととなったエポックメイキングな転換がここから始まった。 Windows対応の機種を選ばないAPが出回るにつれて、PC-9801シリーズの優位性も徐々に低下していくこととなる。

5)91年5月:日本IBM DOS/Vパソコン(PS−55Z)発表

4)91年7月:COMPAQが日本法人を設立

5)92年3月:COMPAQ 日本向けDOS/Vパソコン発表

 →DOS/Vパソコンの日本上陸、

6)92年5月:北米でマイクロソフトがWindows3.1発売

7)93年5月:日本語版Windows3.1を発売

8)93年10月:富士通がFMVを発売 DOS/V路線に転向

 

それまでのPC98アーキテクチャー陣営(NEC、エプソン)の寡占状態が崩れ、DOS/Vアーキテクチャー陣営との厳しい競争が始まった時代でした。

 

続きは次回に。

 

<参考:日本のパソコンの歴史の理解になるURLです>

 ・一世を風靡したNECPC-9800シリーズ:さようなら98 (出展:All About

   

・第1 日本のPC史を振り返る(前編)〜PC-9801の時代 (出展:@IT)

→アーキテクチャー的な用語が判る方は、こちらが詳しく記載。

 


2005年05月07日

パソコンの黒船(2)

続きを書くのに際し、98シリーズの系譜を調べねばと思い、Amazonで検索して注文しておいた本が1日半で届いた。 早くなったものだ。
 
PC−9801の最終出荷が04年3月だったのを記念して、アスキーさんがPC98の永久保存版を出してくれていた。 さすがはアスキー、喝采! 多謝!



蘇るPC-9801伝説 永久保存版―月刊アスキー別冊

 

98に関わっていたものとしては懐かしい記事が満載だった。 ハードの話が少くないのは残念だが、多くの思い出のゲームがCD添付されている。

少しお高いが、創世記のパソコン業界OBの記事や9801/9821の完全年表や9801が初めて世に出た時の月間アスキー1982年号パロディー復刊綴じ込みなど、永久保存版として満足な内容だった。

 



パソコンの黒船(1)

私があの伝説の「日の丸パソコン」、「国民機」とさえ言われた「PC98」の主力開発拠点の1つ、NEC新潟の開発部長として赴任したのは、こな雪の舞う91年12月の寒い日だった。
 
私が関与した当時のエポックメイキングなPC98の開発の現場の歴史を振り返ることから、当時のPC開発組織体、開発手法、マネジメント論の特徴を抽出して、効果的な製品開発マネジメントのポイントを考えて見ようと思います。 また、当時の開発部隊の思い入れの記録、自分史としても意味があるのではないかと思っています。
 
91年当時は、PC−9801は日本ではシャア60%を超えるガリバーブランドだった。 「98」、「キュッパー」、「きゅっぱち」この発音も懐かしい!)と言えば日本中の共通語だった。日本はいわばパソコンの鎖国状態に近く安眠をむさぼっていた。
 
そこに大事件が勃発した。 忘れもしない92年10月に世界一のシャアのCOMPAQが12万円($1000PC)というショッキングな低価格の大砲を備えた黒船で日本に上陸した。 マスコミでも“コンパック・ショック”、“日の丸パソコン危うし!?”と大きな話題となった。
 
 

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