2005年06月07日
更なる低価格化を目指して
93年1月の初代98FELLOW、98MATEによる黒船パソコンの撃退は一旦は成功裡に終わりました。 しかしながら、この93年1月を契機にパソコンは大競争時代の幕開けとなり、その後もコンパック、IBM、DELLなどの海外大手のDOS/V勢や富士通、エプソン、東芝などの日本勢との戦いが徐々に熾烈となっていきました。
パソコンの価格戦争はさらに強まり、パソコンの新製品は機能・性能は大幅にUPしつつ価格は大きく下がって行くというコストパフォーマンスが飛躍的に伸びる時代となっていきました。
初代98FELLOWの出荷を達成した後、引き続き後継機として2代目98FELLOWの開発が始まっており、更なる低価格化の切り札が求められていました。
そこで、当時、欧米のパソコン大手向けのOEM生産でパソコン産業が成長しつつあった台湾からの海外調達に初めて踏み切ることとなりました。
93年当時は日本のパソコンメーカー大手は、部品レベルでは台湾からの調達を勿論していましたが、国内開発&国内生産が当たり前で、パソコン本体やマザーボードの海外生産・調達はどこも本格的には行っていませんでした。 ましてや台湾への設計込みの生産委託(ODM)はまったく未知の世界でした。
台湾のパソコン産業が急成長をして、世界のパソコン工場と言われだしたのは90年代の後半からです。 台湾パソコン産業は90〜92年の北米市場の不況による苦境や、コンパック・ショックなどアメリカのパソコン大手の低価格路線への転換により、自社ブランドによる欧米市場ビジネスの地盤を失いつつありました。
93年頃の台湾パソコン産業は戦略を転換して、自社ブランドを諦め、欧米の大手PCブランド向けのOEM、ODMビジネスに特化をすることにより奏功しつつあり、その後の95年以降の爆発的な成長をする前夜という状況でした。
(参考資料:台湾パーソナル・コンピュータ産業の成長要因(著者:川上桃子氏、byJETRO))
日本ではPC98シリーズ、海外ではAPCシリーズの両方のビジネスを展開しており、総量効果を活かした東南アジアからの低価格部品調達を行っていました。
その頃は、CPU、メモリ、HDD、CD−ROMなどは日本で買う方がまだ安い状況でしたが、電源盤やプリント基板、ケーブル類、KB、シャーシなどは東南アジア、とりわけ、台湾・香港エリアが日本よりも2割前後安くコスト的には魅力がありました。
その関係もあり、台湾や香港からの低価格部品のサーベイや調達の機能を既に持っていました。
香港では低価格部品の発掘や部品・電源盤などODM、海外向けPCの一部OEM生産の仲介業務などを目的としてNEC現地法人が設立されており、また、国際資材部の海外事務所が台湾と香港にもあり部品調達業務や現地動向の調査などを行っていました。
そのような状況下で、次期98FELLOWは台湾で初のODMを立ち上げるトライをすることとなり、台湾へ調査団を派遣し、何社かサーベイしODM先候補を絞り込みすることとなりました。
これがその後、日本のパソコン大手で初の海外生産へ踏み切る最初の一歩となりました。